1997.10  ESSAY
大阪府文化芸術年鑑1997年版 デザインの器としての都市 

デザインの器としての都市
大阪府文化芸術年鑑1997年版
文/杉崎真之助

デザインの器としての都市

ここでは視覚コミュニケーションとしてデザインを捉えてみることにします。 個の表現を基準にして日本のグラフィックデザインの現状を俯瞰しようとした場合、いくつかのデザイン年鑑がその手がかりを示してくれます。現在この国では4つの団体が毎年年鑑を発行しています。会員2000名を抱える社団法人日本グラフィックデザイナー協会の発行するJAGDA年鑑。広告の作家が中心となって発足したアートディレクターの団体である東京アートディレクターズクラブのADC年鑑。文字を表現の核にした専門家が集まった日本タイポグラフィ協会の年鑑。タイポグラフィのデザイン文化を追求する東京タイポディレクターズクラブのTDC年鑑。そのほかパッケージ、サインの専門家の団体が年鑑を発行しています。それぞれ戦後のグラフィックデザインに明快な視点と大きな流れを作ってきた作家が軸となる集団です。 残念ながら現在、時代に対してインパクトを与えるという意味では、日本という単位の中で大阪を尺度の中心にすえて語れるグラフィックデザインの潮流は見ることができません。

広告の終焉

戦争の時代をはさんだ1950年代まで、つまり東京と大阪が蒸気機関車で結ばれていたころにまで立ち戻ると、現在のグラフィックデザインの隆盛の核になっている多くの才能は関西と東京で競い合っていたのです。その後日本の各地のコミュニケーションデザインの才能をひとつの流れに統合していったのが、商業デザイナーあるいは応用美術作家の団体として1950年に発足した日本宣伝美術会(日宣美)でした。デザインは成長指向の経済と大衆の中で大きく育っていく時代を経験します。その日宣美が学生運動により解体したのは1970年でした。これが、60年代のカウンターカルチャーを背景にした新しい価値観が社会化されていく歴史の始まりといえるでしょう。オイルショックを経てこの頃から、それまでの成長指向からすこし価値観をシフトさせた企業の視点ではなく、消費者の視点で語る広告のスタイルがその後の日本の特異なコミュニケーションの起点になったのです。
1970年から20年の間に、広告写真の中で微笑んでいた白人のモデルは我々と同じ東洋人のモデルとなり、いつの間にか理想とされる価値の尺度も変わりました。これは70年代、80年代を通過しながら日本が西洋の技術、情報を消費的に摂取する時代から、自分達自身の文化を消費していく時代へと変化したことの象徴とみることができます。広告デザインは表現と影響力でその先頭を走っていました。広告という行為は本来企業からの一方的なメッセージとして意図されているものです。ところが広告は制作者と受け手の等身大のコミュニケーションであるという幻想が両者の間に成立したのです。以降、日本の広告は消費者を論理で説得するのではなく、両者の間のある種の価値観の共有の中で成立するという独自性を特徴として獲得し、豊かで多様な表現の揺りかごを消費者と共に楽しんでいたのです。
急激な経済発展、長期の好景気の時代の中で、日本人は自らを平均化された豊かな市民の集合体であると認識しました。そんな日本人が求めていたのは、情報の相対的な差異の部分であって本質的な新規性ではなかったのかもしれません。しかし差異化は創造ではなく表現の消費でした。この情報の受け手の価値観にすりよった自己完結の表現のシャワーは時代の変化によって閉塞していったのです。そして、1990年代に入り日本経済にかげりの中で才能ある個人が時代を切り開いていた広告の競技場はもうないのです。
広告とグラフィックデザインが同義語として語られていた時代から両方の単語が意味を失った現在までを振り返ったとき、コミュニケーションデザインの本質は、デジタルテクノロジーの急激な発達の中で、もはや全く違った地平にさしかかっている事実が明快に見えてきます。

コミュニケーションとしての活版術

1980年代の終わりのポストスクリプト言語の登場、アップル社のコンピュータとレーザープリンターはデザインの現場の風景を全く変えてしまいました。デザイナーの机の上から定規や製図ペンは消え、スプレー式の接着剤はマウスに変りました。世界的に見ると現在グラフィックデザインの現場は、ほぼすべてデジタルデータで制作されています。もちろんカレンダーや雑誌など、紙は現在でも電波や通信メディアと共にコミュニケーションあるいは記録媒体の主役です。今後も扱いやすく便利なインターフェースの媒体としてディスプレー装置と共にずっと残るでしょう。もしかすると今後ディスプレー自体が、文字が動く紙として軽く薄くなるかも知れません。
しかし本質的なコミュニケーションデザインの大きな変容はこのことではありません。視覚情報がどういう状態で存在するかということが重要なのです。いままでデザインは紙という物質のうえにアウトプットした状態でしか存在できませんでした。しかしデジタル技術によってコンピュータのハードディスクに打ち込まれた視覚情報そのものがビット(デジタルデータ)として存在し、紙などの媒体に頼らずにそれ自体で記録できるようになりました。つまりデザイン自体がビットとして存在できるようになったのです。
ある情報をネットワークに接続することによって、それを印刷、出版という複製作業を伴わずに発信することができます。いままでの印刷によるパブリッシングあるいは電波によるブロードキャスティングといった伝達方法が、デジタル環境ではネット上で公開されたデータに直接アクセスすることでも成立するのです。大きな設備、資金を必要とせずに個人が世界とコミュニケーションできる訳です。視覚情報あるいは音に関しても、距離と時間とコストをこえて媒体を選ばず自由に知的情報を共有できるということが、デジタル環境のコミュニケーションの本質でしょう。
視覚情報は文字とイメージで記述されます。記述による情報の蓄積、伝達、再使用、組合せ、改訂の行為の発達の歴史が、人間の活動を飛躍的に拡大させてきました。いま日本のグラフィックデザインの100年近くにわたる大きな流れは、その表現の歴史と時代の変化の葛藤の中で方向感覚を見失いかけています。しかし新しいデジタル環境の視点でもう一度グラフィックデザイン、活版術の流れを振り返ったとき、新たに拡大された情報オリエンテッドなコミュニケーションデザインが時代のキーデバイスとしてみえてくるのです。

デザインの器としての都市

都市を支えるのは交通であり、流通であり、そして情報です。情報オリエンテッドな多極構造の世界イメージで考えると、デザインのランドスケープとして情報の都市とでもいえる新しいビジョンが立ち現れてきます。国境の存在は軽くなり、大都市は相互にネットワークで交流する。世界からアクセスされる視覚情報化された都市のイメージは、訪れたことのない人にも鮮烈な印象を与えます。
たとえば、大阪を日本という切り口でなく世界の切り口で見てみましょう。文化の蓄積の上にアップデートな多様性、混とん、わい雑を持ちえる都市らしい都市。都市自体のもつオリジナルな肉体性。あらゆる情報を受け入れ噴き出していく豊かな体力。過去に確かなデザインを育んできたこの都市本来の姿が見えてきます。
大阪はコンテンツの都市であると思います。目利きの都市であるといえます。物質オリエンテッドな構造から表現オリエンテッドな構造へ体質を転換して、常に新しい価値を創造するという大阪ならではの知恵を発揮するならば、閉塞する日本という枠組みから放たれた情報デザイン、コミュニケーションデザインの多様な花が咲く都市になるこも単なる夢ではないかもしれません。(グラフィックデザイナー)