2006.03  ARTICLE
[対談] 若林広幸+杉崎真之助 「ゆらぎ」と「ずれ」のレイアウト

明確な主張と個性ある建築を数多く手がける一方、
南海特急「ラピート」のデザインでも知られる、建築家・若林広幸。
簡潔で構造的な表現をもちい、モリサワの書体見本帳をはじめタイポグラフィ分野でも
活躍するグラフィックデザイナー・杉崎真之助。
近畿を拠点に活躍する二人のクリエイターが、京都で語り合い、
浮き彫りにする「レイアウトの本質」とは─。


近代と建築とグラフィックデザイン

杉崎 今日はレイアウトについて若林さんとお話ができるということで、いろいろ参考になるご意見が聞けるんじゃないかと楽しみにしてきました。まずひとつ、ここが京都ということもあって思い浮かぶのが景観規制についてです。特に京都の場合は地元の伝統や風習とも関わってくるし、我々もやはり、京都には伝統的な景観を期待してしまう。景観が重要視されるのは当然ですね。しかしだからといって、建築物の色や高さを制限し、形も統一していくことが、わくわくするような
景観を生み出すことになるんでしょうか。

若林 京都で建築の仕事をしている僕にとっては、切実な問題ですね。僕が子どもの頃は、街中の風景といえば、瓦屋根がばーっと広がっているものだった。町家が並んでいる風景というのは瓦の色が支配的なんです。そこにぽつりぽつりと近代的なビルが建ってきた当初は、むしろ「あ、なんかカッコいいな」と思わされるものだった。つまり対比の美しさ。レイアウトの重要な要素でもありますよね。ところが戦後になって、いわゆる新建材というのが無数に登場し、街を侵食しだした。それがだんだんちぐはぐなことになってきて、あるひとつの臨界点を超えたとき「なんだ、これは」という状況になってしまった。レイアウトが崩れたわけです。僕はデザインの要素は、色と素材と形、に集約されると思っています。そのなかで、形はそれほど重要ではない。例えば京都の町家も、それぞれをみれば別々の形をしているけれど、瓦屋根に土壁である限り統一感があります。ところが色と素材がバラバラだと、本当にちぐはくな町並になるんです。ある種、近代主義の幻想が景観を破壊した面もあるわけですね。共通のモジュールだとか互換性、合理性、コストなどを追求した結果、世界中にチープなものが蔓延してしまった。我々が観光旅行に行くのは、ヴァナキュラーなもの、つまりその風土に根ざした独自のものを求めて出かけるわけです。ところが世界中の都市が、みんな同じ姿になってしまった。


合理と非合理の狭間ー「ゆらぎ」の存在

杉崎 ヴァナキュラーなものというお話が出ましたが、グラフィックデザインはその逆に、整理整頓という近代のテーゼがその「原形」にあるように思うんです。例えば書物。ひとつのレギュレーション、基準に沿ってユニットで組んでいく。グリッドという考え方がそれをよく表していますね。カオスではなく整理整頓されたものが「見やすい」ものであると。つまり、読む行為というのはもともと人工的なものだったんじゃないかなと思います。
若林 たしかにグラフィックデザインの使命には、「読ませる」あるいは「見せる」、きちっと「わからせる」ということがありますよね。アートならば感じてもらえばいいけれど、グラフィックは「感じる」んじゃだめ。杉崎 そうですね。伝達を設計するというのが、グラフィックデザイナーの仕事。建築に学ぶべきことは多いと思います。構造化ということや、さまざまな制約に対して答を出していくときのノウハウ。歴史的な積み重ねもある。制約、つまり条件こそが設計の基本になったりもしますよね。

若林 制約があるがゆえの面白さというのは、確かに建築的かもしれません。僕自身も、「こんな狭い敷地に、どうすんねやろ」といった条件があればあるほど「何とかしてやろう」と思う。条件をクリアすることに奮起しますね。

杉崎 僕はデザインを、「情報の設計」と「印象の設計」という二つの面から捉えています。情報の設計というのは、情報を整理整頓して人に届くような形に整えるということ。ただそれだけでは、感動というものは生まれないのではないかと思います。

若林 そうですね。近代に限らず、建築というのは合理的なものだけれど、やはりその中の合理性を超えた部分が、実は感動を生んでいるのだと思います。たとえばオフィスビルの設計を依頼されて、それを合理的におこなう。これほどつまらないことはないわけです。そこにわざと合理的でない部分、例えば無駄やアキを、それと感じさせないような形で導入できなければ、感動は生み出せません。実は昔、真ん中に階段室があって円形のオフィスを造ったことがあるんですよ。そのとき考えたのは「こうすれば間仕切りがいらないじゃないか」ということ。中央に障害物があるからフロア全体は直接見渡せない。声は聞こえるけれど、視覚的には隔離されているわけです。オフィスは四角かといえば、必ずしもそうじゃない。その会社の性質や施主の考え方によって、いろんな可能性を持っているんです。

杉崎 建築というのは、その中で過ごす人や、それから周囲の地域や地形にも根ざしているものですよね。むしろそこからは絶対に逃げられない。そして、実際の物質を使って構築していくものでもある。職人の手わざなども加わってね。若林さんの作品にもありますね。何メートルかおきに柱を立てるとして、コンクリートだと規則性が見えてしまうけれど、原木などを使うと、そこに「ゆらぎ」のようなものが出てくる。そのコントロールが、建築って楽しそうだなと思うんですけれど。

若林 図面上では同じものでも、作り方によってまったく違うものに変わってくるということがありますね。たとえばコルビュジェのサヴォア邸。ピシッと作られているけれど、実は壁は漆喰。漆喰にゆらぎがあるわけです。サッシも鉄で、塗装がムラになったりしている。今の建築で同じものを作ると、恐らく建材にはパネルか何かを使って、サッシはアルミで……と、まったく同じレイアウト、同じデザイン、同じボリュームのものを作っても、似て非なるものになるでしょうね。一見キレイだけれど、飽きてしまう。

杉崎 グラフィックデザインも以前は、紙やインキといった物質を、書物やポスターのようなモノにすることだったわけです。そこへコンピュータを導入したことで、目に見えない階層構造といった「情報のありよう」が見えてきて、コミュニケーションデザインという、物質として存在しないものをデザインする仕事が明確になり、建築との違いが出てきたように思います。一方で、コンピュータの中でデザインしたデータは、そのまま製版・印刷されるということになった。それはそれで、整理整頓された世界の中のひとつの美学なんですが、どうもつるつるした画面しかできない。そこに疑問を感じるようになってきたんです。

若林 近代というのは、ゆらぎのないものを目指してやってきて、いろんな技術で完全にフラットなものが作れるようになってきた。ところがそれが常に魅力的かというと……。

杉崎 グラフィックデザインの場合、コンピュータを使うと、それが完璧にできちゃう。建築でいうと、CADとCGで作った完全にフラットなデータが、そのまま実物になるような状況ですね。


コンピュータによる身体感覚の喪失

杉崎 僕自身がコンピュータと出会ったのは1990年。MacのSE30というマシンでした。それまではロットリングで線を引いていて、正方形ひとつとっても正確に描くのは大変でした。それがコンピュータを使うと一瞬で描ける。「これは仕事が1000倍早くなる」ということで、コンピュータにのめり込んだ時期がありました。ただそうやって仕事をしてるうちに、スケッチをしなくなったということに、最近はたと気がついたんです。

若林 建築でも、コンピュータを使っていると、確かにすごく便利なんだけれど、身体的なスケール感が失われるということはありますね。僕らは1/100、1/50のスケール感を体にたたき込んでいるから、図面を見ればサイズが肌で感じられる。ところがコンピュータの場合、細部
を拡大表示すると、それが全体のどの位置にどういう関係であるものなのかわからなくなるんです。かといって縮小表示すると今度は、ディテールのもたらす全体的な雰囲気がわからない。部分と全体の関係というのが、コンピュータでは掴めないんですよ。だから僕は若いスタッ
フには「絶対にコンピュータでスケッチするな」と言っています。

杉崎 スケール感の問題もたしかにありますね。グラフィックデザインの大半は、人間が手に取って見るものです。だから原寸感覚というのは、非常に大切なんですね。ところがコンピュータの画面で見ていると、寸法の感覚がないものを作ってしまう。だから僕は、制作中は常に原寸をイメージしなさい、特に「判断」は必ず原寸でしなさいと言っています。それから、人間が見る、空間の中で見るということがありますよね。たとえばポスターやサインの場合、どんな場所に掲示されるのか、その周りにはどんなものが見えるのかということも考えないとダメなんですが、どうしても作品だけに集中してしまう。

若林 制作やコミュニケーションの場から、身体性のようなものが失われていってるような気がしますね。

杉崎 グラフィックデザインの今の流れの中には、それを回復しよう、もう一回基本に戻ろうという動きがあります。その一つに、活版印刷のような過去の技術をもう一度使ったり、紙や印刷のの物質性をもっと追究していこうという流れがある。一方で、コンピュータの技術がある
からできる表現で、もっと前へ行こうという流れもあります。今日は京都に関係する作品を二つ持ってきたんですが、この「TO KYO TO」は、後者のようなねらいを持った作品です。形自体は規則的なんだけれど、これぐらい過剰に集積されてくると、少しオーガニックに見えてくる。でもそれは、この形が持っている性質かというとそうではなくて、どうも人間の頭の中のゆらぎが、感覚として投影されるようなんです。

若林 ずーっと凝縮されていくその過程が一瞬で見えて、それがなにかオーガニックなものを感じさせる面もあるのかもしれませんね。

杉崎 規則正しいものも、ある程度を超えると、人間にとってはカオスに見えたりする。これはコンピュータの正確さなしにはできない表現ですね。そういう動きもあるなと。

若林 もう一方の動きというのは、理路整然としたものの中に、ノイズを加えていこうということですよね。コンピュータで引いた線の中に手書きのものを入れたりすると、ずいぶんイメージが変わる。書道で、王羲之や顔真卿を半紙に4文字ずつ書いて練習したりしますよね。でも実は、原文は本当はすごく小さい文字なんですよ。手書きというのはそれぐらいの拡大に耐える迫力というか、エネルギーを持っている。

杉崎 僕も最近は、発想の道具として万年筆を使っています。こういう道具を使うことで、仕事に少しゆらぎを加えていこうかなと。コンピュータで仕事をしていると、体が傾いていたりダレていても、マウスを動かせばきれいな四角形が描けてしまう。でも例えばろくろを回すのであれば、中心がずれるとあかんから、姿勢を正してやりますよね。あるいは書をかくときなら一瞬自分の息を整えるとか。そういう緊張感をもう一回覚えたいという思いがあるんです。

若林 コンピュータは便利だし、簡単に疑似体験できますからね。建築でも、CGで描くと、ものすごくカッコよく写るから、できちゃったような気になる。すると、今は発想がちょっとあれば、Macにソフトを入れれば何でもできるということになる。一億総デザイナー時代ですね。

杉崎 コンピュータの能力に寄り掛かった、一見かっこいい、デザイン「のようなもの」が街にあふれていますよね。とはいえもう一方では、素人が作ったショップカードが専門家であるはずのデザイナーのものより良かったりもするんですよね。切実だから。

若林 インテリアでもそういうことがありますね。今ならスケルトンが流行っているから、素人がばりばりっと壁をはがして構造を見せたりしていると、かっこいいなと思ったりします。結局グラフィックでも建築でも、ものを作る人は違ったものの見方をすることが大事。コンピュータの中でも、発見する人としない人がいるということです。例えばコンパクトカメラの「パノラマ」というのは、画面の天地をカットしているだけですよね。でもそういう、「見方を変えてみる」ことが発見につながる。「ちょっとくずす、ちょっとずらす」ことで全然別のものになっていく可能性があるんです。


「くずし」「ずらし」とレイアウト

若林 僕は日本人の美の感覚を「7:3の美学」と言っているんです。ルート2の比率ですね。対して西洋の美意識は1:1、左右対称のシンメトリーです。昔の寺院の伽藍配置、つまりレイアウトも、奈良時代は左右対称だったものが、法隆寺あたりから配置をくずして非対称になっている。どうも日本人にとって左右対称というのはあまりよろしくなくって、ちょっとずらしたレイアウトが好まれているようなんですちょっとずらすと、すごく安心感がある。だから髪でも、7:3は安心感がある分け方なんですよ(笑)。

杉崎 数学的に、あるいは論理的に割り切れるもの、安定感のあるものに価値を置くというのは西洋的なんですかね。

若林 そうです、どうも日本人はファジーなゾーンを設けたがるんですね。町家にしても、壁ではなく格子戸でウチとソトを仕切っているけれど、これは非常にあいまいな壁なんですよ。昼間は外側から中がほとんど見えなくて、中から外はよく見える。一方夜になると障子が閉まり、
中の光が外へ洩れて道を照らす。そういう中と外が入れ替わるような、非常にあいまいなものが日本の壁だったわけです。

杉崎 京都の都市計画は中国に倣っているから、基本はシンメトリーですよね。そこに日本の気候や住んでいる人たちの感覚が加わって、現在に繋がるような町並や、ウチとソトの関係が生まれたということでしょうか。

若林 たしかに平安京というのは、理路整然と設計されたものです。でも、都市って都と市って書くじゃないですか。都は、ときの為政者が自らの理想の秩序にのっとって作るものです。平安京や平城京は長安にならって、グリッドのきれいなレイアウトで作られた。そのときは市も、
理路整然と場所が決められていたんです。ところが時代を経るに従って、その市を飛び出して、つまり規律を破って、街中で立ち売りする商人が現れだした。それは現在の京都にも、上立売や下立売という地名になって残っています。こうやって市が立ちだした。市というのはあいまいなもの、カオスです。

杉崎 理路整然としたグリッドの中に、異質なものが出てきたと。

若林 そう。そして、市が立って初めて「都市」なんですよ。都だけではつまらない、政治の拠点にしかならないわけです。世界中の都市はどこもそういう変化を経て、面白くなってきたんです。杉崎 僕も、コンピュータで仕事をしてきたこの10年は、シンメトリーとか整理整頓ということにこだわっていた。スイスタイポやミニマリズムや。それは今でも続けているけれど、そこに「ずらし」や「ゆらぎ」など、感覚的なものを入れることによって、自分の気持ちが面白くなってきますね。

若林 面白くなってきますね。僕もデビュー作の「ライフイン京都」という施設では、ものすごく左右対象にこだわったんですよ。立体的な建物なので、見る方向によっては左右対称だとわからないんですけれど。でも次の作品からは、もう左右対称はやめようと。結局、ずらした方がもっと面白いということに気がついたんですね。

杉崎 それは、左右対称を知っているからこそ、ずらすのが面白いんですね。

若林 そうそう。一回やってみないとわからない。

杉崎 ちょうど都市のグリッドの話が出たところで、もう1点、平安京の地図を元にした作品も見て下さい。昔の京都を舞台にしたゲームのポスターなんですが、ゲームに出てくる対話も全部並べたんですよ。日本語と英語、ふたつのグリッドを使って。若林 面白いですね。字がほとんど字として認識できない、地紋のようになっていますね。それからパッと見た瞬間、ICの回路と似ているなあと思いました。やっぱり都市は回路、サーキットなんですね。僕も昔、京都をテーマにした作品を作ったことがあるんです。平安京のグリッドの交点に120メートルのビルを建てる。その中へ今あるビルをぜんぶ取り込むと、その他の街の部分は、ほとんど平屋もしくは二階建てに戻せるんです。そして夜になったら、その120メートルのビルがボーッと光って、グリッドの交点が浮き上がるという。

杉崎 京都というのはある種特別なレイアウトを持つ町ですよね。それを際立たせれば、この町はもっと面白くなるんじゃないでしょうか。ただ、じゃあ全部計画通りに作ればきれいなのかというと、そうじゃない。まず基本的な構造を作って、そこに先ほどの市のような、ある種の変化=ゆらぎを許す二重構造を作るということです。これはグラフィックデザインのレイアウトにも通じることのように思います。

若林 そういう、グリッドが際立った実用的なものにカオスが混じっているとか、男性の中にある女性性とか、相反するものが共存していところに「色気」というものが存在するというのが、僕の持論なんです。そして色っぽいとは、人間にとって魅力的に映るということだと。建築に
とっても、色っぽさはものすごく大事だと思うんです。


アンビバレントなもの非対称なものの魅力

若林 以前、ある有名な建築家のストイックな雰囲気のビルに、入居したテナントが中近東のオブジェのような看板をバーンと設置したことがあって、その方は「あれは俺の作品から外す!」と怒られたそうなんです。ところが僕らから見たら、「カッコええやん!」と。ものすごくい
いんですよ、四角い建物と、うねるような文字の対比が。

杉崎 確固とした構造をもつ都市のなかにパブリックアートが存在するとか、パリにエッフェル塔があってルーブルにピラミッドがあるとか、そういう対比は面白いですよね。

若林 相反するものが共存しているほうが面白いですよね。ミニマムでストイックなものを作りたいという気持ちは常にある。でもそれを潰したいという感情も一方にあって、それがせめぎ合ってモノができていく。まさにアンビバレントなものなんですよね。

杉崎 伝統的な日本の美意識の中にも非対称だとか気配、間といったアンビバレンスが含まれていて、レイアウトのひとつのヒントになる。ただその形式=スタイルだけをかすめ取っていると100年後には何もなくなってしまう気がするんです。何か背骨のようなもの、グラフィックデ
ザインで言うところのグリッド、それを知ったうえでそこにずらしを加えていくことで、より強度のあるコミュニケーションがデザインできるようになるのではないでしょうか。

若林広幸┼杉崎真之助