2008.11  LECTURE
真 and/or 善 dddギャラリートーク

出演:杉崎真之助・高橋善丸 司会:よしみかな
2008.11.25水 dddギャラリー

よしみ
今回は、「真 and or 善」というタイトルで、日本のグラフィックデザインを代表するお二人の競演です。物理学的と言ってもいいアプローチ方法で、構築的なデザインをされる杉崎新之助さん。そして文学的とも言えるアプローチで、質感、湿度のある情感的なデザインをなさる高橋善丸さん。非常に対照的なお二人ですが、このお二人は昨年、ハンブルク美術工芸博物館でも「真善美」展覧会を開かれ、まさに日本のグラフィックデザインの両極をヨーロッパ圏にプレゼンテーションしたと言えます。この展覧会はお二人にとってこれまでの創作活動の総集編のような位置づけとなり、ここでそれぞれにデザインのアイデンティティを確立されたわけです。今回の展覧会では、そこからさらに進化したお二人のクリエイティビティをご覧いただけます。
まずは杉崎さん、今回のテーマ「ソリッドグラフィ」ついてお話していただきますか。

杉崎
1988年にマッキントッシュが登場した当初は、僕は、コンピュータって人間をダメにするんじゃないかと思ったんです。ところが画面を見たとき、これは真っ白い紙と同じだな、と。もしかしたら、デザイナーの味方になり得るんじゃないかな、と。ここから僕自身のデザインが始まった気がします。昔は、直線一本書くのも大変だった。そういう意味でいえば、DTPが出るまでは、デザイナーはカタチを創るということに自由ではなかったんじゃないかという気すらしますね。

グラフィックデザイナーにとって展覧会とは、日常の仕事とは別の実験的な発表の場です。僕自身も1995年くらいから何回か行っていますが、今回は何をしようか迷ったんですね。そこで最終的に、自分が今までやってきたことを少しまとめてみたのが、この「ソリッドグラフィ」。高橋さんは、「エモーショナルタイポグラフィ」ですが、僕はエモーショナルなことはやらないよ、という反発心みたいなものがあって(笑)。でも今までやらなかったもの、「間」とか「空間」というものも入れてみたらどうかな、と考えました。

よしみ
はじめて人のモチーフを使われましたよね。これはどういった意味があるんでしょうか。

杉崎
同時代に生きる一人としての人間。67億分の1の人間として、欠けがえのない一人。世界は具体的に物象できていますが、それだけではなく、情報を含め、いろんなものが在る。僕が表現する幾何学形態というのは、普段の人間の生活とは違うように見えるんだけど、そこに人という単位を入れることで、見る側も自分が世界に入っている気になるのでないかという仮説ですね。世界観を共有できるのではないか、と。

よしみ
真之助さんの作品は、数学的、物理学的というか、無機質で感情のないエレメントを重ねながら量やスピードの構築のなかで生まれてくる、どうしようもない有機的なエネルギーを感じます。
それに対して善丸さんの場合は、非常に叙情的、湿度のあるデザインですが、今回は「エモーショナルタイポグラフィ」というテーマで、ちょっと違う一面をご覧いただけると思います。

高橋
文字というのは、コミュニケーションに有効な道具ですが、そこにプラス表情などの情報も伝えられると思うんです。とくに手書き文字には、書き手の癖や筆圧、走り書きだったり書き殴りだったりのスタイル、人格みたいなものまで、書き手のそのときの情報がすべて入っています。書道などはさらに、毛筆特有の刷け足や滲みなど、絵画的な情報も一緒に伝えられます。

記号として合理的にできている活字を突き詰めていくとフォントになる。有機的な画像情報が入った手書き文字を突き詰めていくと絵になる。
どこの国の文字でも、きちんと並んだ大きさでアンダーラインをそろえるのが文章として美しい、というのが常識。ところが日本の文字は、大きさも違えば太さも違う。このあえて違うところに表情を持たせる。漢字文化特有のルールというか、申し合わせみたいなものがあるんですよね。

それでは、手書き文字をそのままフォントにしたら表情が伝わるのか。でも、手書き文字のバリエーションがいくら増えても、手書き文字という一つの表情ができて、それがくくりになるだけで、逆にそこには記号という合理性が後退していってしまう。それなら、活字の合理性を活かしながら、表情が伝えられないだろうか。それをシミュレーションしたのが今回のテーマです。

今回の展覧会のために作ったのは、天地の線がどこまでも伸びる天地無限のフォント。
小雨から土砂降りまで、雨に例えた線を強調していくことで、雨の質感を文字で表現してみました。また、グッとアップにしたり引いたりしてみると、グロテスクな表情から叙情的な表情まで、いろんな表情が出てくる。これを使って作ったのが、今回のポスターです。世界で災害にあっている子供たちは天文学的な数字。この事実を伝えてみようと。
たとえばHunger。いま、世界で1億5千人もの子供たちが飢餓にあっているんですが、その7割が南アフリカと南アジアに集中しています。バックにある数字は、天文学的数字を表現するためにゼロをパターンにしてみました。
Illnessは、病気。5歳未満で死ぬ子供の数が、1年に1千100万人です。
次の数字はショッキングですね。360万。1990年代。つい最近のことですが、戦争で亡くなった人の数です。これは、第二次世界大戦で亡くなった日本人全員を上回る数字で、もっと驚くのがその45%が子供という事実です。戦争の犠牲になっているのは、戦争に関係のない人たちという、そんなやるせないドロッとした情感を文字にしました。

よしみ
真之助さんは最近、ご自身のデザイン観を語るときに、「情報の構築と印象の設計(インプレッション・アーキテクチャー)」といった言葉を使っていますよね。

杉崎
とくにコミュニケーションデザインの場合、情報をどんどん増やしていくことでなくて、必要なものだけを発見していくことが大切。つまりマイナスのデザインです。完成品ではなくそのプロセスに意味があると考えると、どんな構想でそれが出来上がったのかが重要だと思います。
また印象の設計というのは、押し付けであってはならない。だって、結局そのデザインを見るのは人間だから、その人たちの心に印象を伝えることが仕事です。それをテーマに考えていますね。

よしみ
真之助さんの作品というのは、分かりやすさを大切にしていると思いますが、いろんなプロセスで情報を整理整頓をされてますよね。

杉崎
整理されているから情報であって、整理されてないとデザインじゃないですよね。

よしみ
高橋さんは、ファジーコミュニケーションという言葉でご自身のデザイン観を構築されていますが。

高橋
デザインで一番重要なのはコミュニケーション。とは言っても、伝える相手や地域、民族、あるいはメディアなどによって、伝え方は変わってきます。そんな中でより効果的で、共感を得る伝え方をしていくためには、対象相手の価値観を知ることが前提になる。ならば、まず自分たちのアイデンティティは何だと。ここから入ってみて、自分なりに二つのテーマを設定してみました。
一つは、「古来より現在まで継続している習慣や観念であり、一つの現象にとらわれないもの。昔から今まで脈々とつながっている文化の根底にあるもの」。
もう一つは、「権力や宗教による文化ではなく、一般人の生活習慣に根ざしているもの」
アイデンティティの中から自然ににじみ出てつながってきたものや、ある指導者の意思や引用された宗教ではないところから出てきたものを探し出していかなくてはいけない。そこで僕は、8つのキーワードを出しました。
モノとのふれあいの質感を大切にする「肌合」。モノが朽ちてなくなっていく過程にさえ美を見出す「風化」。生活の中に自然を取り入れる「野趣」。あるモノを本来の目的以外の自然物に見立てる「見立」。アニメや漫画など、二次元のものを三次元的に空想する「平面」。暖簾や簾など、壁がなくても意識だけで境界をつくる「結界」。おぼろげな風景に抒情を感じる「朧・妙」。雑多なモノを取り入れて全体でバランスを取る「混在」。さらにこれらを分類すると、「質感」「空間」「情感」という三つのジャンルができます。そして、これらのものを複合していったとき、そのなかにファジーという概念が出てくるんですね。
ストレートに表現しないことこそ、美しいと感じる。曖昧な表現は、受け手側に想像させる。かえって、非常に深いディテールを想像させる。そういうコミュニケーションですね。

よしみ
ファジーコミュニケーションにいたった背景は何ですか?

高橋
かつて日本のグローバル化と言えば、西洋化することでした。しかし今は日本にも発信することが求められている。そうなると、日本人のアイデンティティって何だったっけ、と。
それは、ステレオタイプなものではなく、政治や流行に左右されない、脈々とつながってきた根底の美意識。そういった自分たちのアイデンティティを知ることが、まずはコミュニケーションの基本であり、相手の価値観を知ることにもつながるはずです。そしてそれが、グローバル社会の中での摩擦を防ぐ根幹になるのではないでしょうか。
私がつくると何をやっても日本的なものになってしまうのですが、ステレオタイプなものはつくりたくない。オリジナルを追求していきたいと思っています。

よしみ
真之助さんにとって、コミュニケーションデザインの定義みたいなものはありますか?

杉崎
なんらかのスタイルは必要です。たとえばコピーライターは、文字に対して、明朝なのかとかゴシックなのかとか、書体は必要でしょう。そういう細部はコミュニケーションに付着してくるもの。しかし、コミュニケーションというのは、いかに語るかが重要。ところが、スタイルだけがカタチとして見えてくるとまずいんです。
かくいう僕は、マイナスのデザインといっているけど、けっこうマイナスしてもしきれない個性がある。だからその部分を論理的に否定する部分と、結果的に個性がどう伝わるかは、ちょっと違う気がする。ほんとは全客観的に見ないとダメなんだと思います。
一方、高橋さんは日本的なもの、和風なもの、そういう風に見られたくないとおっしゃる。だけど彼のデザインは間違いなく日本の文化に立脚しているわけですよね。すると当然そういう表現が出てくる。声高に語るのではなく、相手に明示せずに暗示する。そのあたりのスタイルと本質とのジレンマみたいなものはあるのかないのか。個性というものを許しているかどうか。

高橋
コミュニケーションは何かを簡単に言うと、発信側の意図と受信側の理解が合致していることだと僕は思います。アートであれば、多様な捕らえ方があっていい。でも、デザインはそうではない。受け入れてくれる理解を想定して発信するのが大前提ですね。
日本的に見られたくないのではなくて、一つのものに対する捉え方はいっぱいあるわけですよね。また、右か左かの二極化ではなく、その中間もたくさんある。つまり、日本といっても、その中にはものすごく多様な情報があるにも関わらず、日本というと同時に「日本レッテル」をはってしまって、自分の頭の中で整理してしまう。そういうものに対する反抗ですね。

杉崎
ハンブルクで海外の記者からのインタビューの時の質問が、僕が1だったら、高橋さんは5。日本的な感性を持っていて、それが海外ではアピールするわけですね。僕はいいことだと思うんですよね。デザインというのは、カルチャーと文明と両方大事にしないとダメだなって。

高橋
向こう(ハンブルク)では、すでにいわゆるジャパネスクには興味を持っていない。でも、日本そのものにはものすごく興味を持っているんですよね。

杉崎
高橋さんは、今まで日本の歴史とか伝統を感じさせる作品が多かった。それに対して、僕は今回の彼の雨文字におおいに興味がありますね。ある部分、平面性という意味で、アニメや漫画とかに近い表現を獲得したな、と思ったんですね。それがおもしろかったな。今までは、どこかカッコつけてたというか、まだ装飾が入っていた。今回は、それを完全に脱ぎ捨てたな、と感じましたね。

高橋
今まで、日本の曖昧さは世界では通用しないと言われていました。とくに政治や経済では確かにそうですね。ただし、個人と個人の間では、曖昧さは求められているのかな、と。その伝え方は通用するんだという手ごたえはありましたね。

杉崎
コミュニケーションというものを考えるとき、広告を例にとると分かりやすい。当然、受け手に何を伝えるかにフォーカスしないとだめだから。日本の広告って曖昧で、あまり直接的に表現しない。だから、広告の場合は、マーケットとか受け手に合わせるだけでいいと思うんです。
デザインの場合は、歴史の積み重ねの途中にきているから、未来を向きながら新しいことをやる。そうなると西洋的になるでしょ。歴史があっても、その上に重ねていくという発想は、日本にはないかなと思います。段階を踏んで未来に向かう文明的なものと、ある種、曖昧な文化。この両方がある方がいいよね。だから高橋さんも許される。
僕はあえて、ずっと理性できたけど、実はずっと気になっていたのがエモーション。幾何学的なものからは、次の造形が生まれない。なぜならそれは単なる四角であったり幾何学形態であったりで、そこには感性を揺るがすものがない。それをずっとここ何年間か考えていて、あぁ、そうか、と。やはり曲線とか曖昧なものとか、手を動かすこと、いわゆる絵を描く行為の中に、次の自分を触発するものがある。
デザインって、あくまでも設計であり機能。でも、創っているのは人間なんです。だからこそ、僕の中にも沸々とエモーショナル心が出てきたんだと思います。

よしみ
今回、真之助さんの中にエモーショナルなものが現れてきたり、高橋さんの中に構築的なものがあったり。何かが相互に生まれていると思うんですけど、いかがですか?

高橋
たとえば僕は、自宅の家具はアンティークですけど、オフィスではガラスのテーブル。つまり、人の趣向は複合的。ところがそれを、ある非常に高い位置に持っていこうとすると、意識を集中してそれ以外のものを削り落としていかなければいかないと思うんですよね。
たとえば、僕だったら粘土の塑像のように、思い入れを積み重ねていくんですけど、杉崎さんの場合は削りだすのかというと、そうでもない。有機的なエレメントの中から、無機的な四角を削りだすのかというと、そうでもない。じゃあ、どうするのかといえば、探すんです。山ほど四角をつくって、その中からこれというものをチョイスする。
ところが今回、いきなり人物が入って、非常に驚きました。今まで二次元の構築の林をさまよい歩いていて、どこかで出口を見つけたのか、あるいは次の林の扉なのか。それは分からないけど、いきなりそこに空間を見出す。本人は空間をつくるつもりはなかったに違いない、と僕は思っていたんですけど、さっき、「間を表現しようとした」と言っていたから非常にショックでしたね。

杉崎
高橋さんとは、たまたま同じ大学で同じ学年。35年間ずっと隣にいた関係です。60年代後半からデザインに目覚めて、共通の時代をすごしてしまったわけです(笑)。
昔、高橋さんの下宿に囲炉裏があって、それが古美術的。もう30年以上前の話ですが、その頃の高橋さんと現在の高橋さんとは、僕の中ではずっと連続していますね。

高橋
僕は読書家でなくて愛書家、ブックフェチなんです。本はもともと情報を伝えるものですが、それだけでいいのであれば、現代ならネット情報がいくらでもあります。そうではなくて、手触り、紙質、におい、重さ、装丁。そのたたずまいすべてを含めて、本というオブジェとして成立している。本から受け取る情報はすごく身体的なもの。たとえば、1000ページの本でも、ぱらぱらと5秒間めくっただけでだいたいどんなものかが分かる。
また、たとえばポスターは、刹那的、瞬間的なメディアですが、本は永遠。古本屋に行けば、100年前の本が手に入る。100年前の人が読んでいたとの同じリアル感がある。

グラフィックデザインは、時代を語る文化だと思います。記録的事実としての歴史ではなく、もっとリアルな時代感覚。たとえば100年後に今の時代が語られるとき、アメリカの大統領がブッシュからオバマに変わったという歴史は残っているかもしれないけど、実際に一般の文化はどうだったのか。それはグラフィックデザインを見れば、非常にリアルに、雄弁に語られているはずなんです。だからこそ、今作っているのものが、一番今の時代に呼応していなくてはいけないと思いますね。

杉崎
僕はグラフィックデザインってそんなにたいしたものかなと思いますね。じゃあデザイナーとは何かといえば、僕は「デザインの目盛り」を持っているかどうかだと思う。尺度をね。グラフィックデザインの手法論を持てる人。逆にいえば、それがあれば何をしてもいいんじゃないか。
僕も、肩書きを聞かれればグラフィックデザイナーではあるけど、たまたま自分が持ってる言語がグラフィックデザインだっただけ、くらいに思っているほうがいいかなと。だから今回のポスターも、これはこれでよしだけど、これだけが素晴らしいものではないし、展覧会をすることがデザイナーの役目じゃない。ただ、逆に言えば、でも展覧会をしてもいいでしょ、と。
高橋
僕はグラフィックデザインというジャンルを言ってるわけじゃなくて。たしかに今回のギャラリーポスターなどは、それを機能させる目的でつくったわけではありません。あくまでも、自分の感性の鍛錬。ただその鍛錬が、現実の仕事に反映することもあれば、現実の仕事を超える発見を生み出す可能性もありますよね。

よしみ
いま、グラフィックデザインが社会性を回復しつつあるように思いますが。

高橋
いずれにせよ、グラフィックデザインはメディアに関わるわけですから、社会性は大事です。まず目的にかなっているか、提案があるか、個性があるか。そして、今だから大切なのは、社会に対して正しいか。

杉崎
基本的には、正しくあるべきですよね。善人であるべき。良心を持たないとできないと思う。メディアの基調が悪になってしまえば、この世は闇です。

よしみ
最後に、今日も会場にたくさんいらっしゃる若い世代のクリエイターたちに向けて何かメッセージをお願いします。

杉崎
デザインをするとき、僕自身は、自分の中に3つのチェックリストをつくっています。簡潔かどうか、本質的かどうか、将来を見ているか。スタイルや流行などはどうでもよくて、デザイナーである限り、歴史の連続の中のひとコマにいるという意識が大切。今があるということは過去がある。とくに20世紀初頭から、いわゆるデザインが確立してきましたが、過去のデザインもたくさん見て欲しい。そうすれば、未来も見えるんじゃないかな。

高橋
我々はアナログからデジタルに移った世代ですが、今の人は当然はじめからデジタルですよね。だからか、仕上がりを想定して発想するという流れに慣れていない気がします。コンピュータが安易に結果を見せてくれるから、次の結果、次の結果と追いかけて、そのスピードに思考が追いつかない。最初に結果を想定できたかどうか。とくに最近の学生さんを見ていて思いますが、方向に迷ったら、一歩下がって自分の立ち位置を見るということが大事ですね。


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